授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

和歌の話⑥ ~「平家物語」5~

薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、 童一人、わが身共に七騎取って返し、五条三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。

「忠度」 と名のり給へば、
「落人帰りきたり」とて、その内さわぎあへり。

薩摩守、馬よりおり、みづから高らかに宣ひけるは、
「別の子細候はず。三位殿に申すべき事あって、忠度が帰り参って候ふ。 門を開かれずとも、この際まで立寄らせ給へ。」と宣ヘば、俊成卿、

「さる事あるらん。其人ならば苦しかるまじ。いれ申せ」
とて、門をあけて対面あり。事の体何となうあはれなり。

薩摩守宣ひけるは
「年ごろ申し承って後、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二三年は京都のさわぎ、国々の乱れ、併しながら当家の身の上の事に候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。撰集のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱出できて、其沙汰なく候条、ただ一身の歎きと存ずる候ふ。世しづまり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をこうぶって、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」

とて、日々詠みおかれたる歌共のなかに、秀歌とおぼしきを百余首、書きあつめられたる巻き物を、今はとてうっ立たれける時、是を取ってもたれたりしが、鎧のひきあはせより取りいでて、俊成卿に奉る。

三位是を開けて見て、

「かかる忘れ形見を給はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候。御疑あるべからず。さても唯今の御わたりこそ、情けもすぐれて深う、哀れもことに思ひ知らされて、感涙おさへがたう候へ」

とのたまへば、薩摩守よろこんで、

「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して」

とて、馬にうち乗り、甲の緒をしめ、西をさいてぞあゆませ給ふ。三位、うしろを遥かに見送って立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、

「前途程遠し、思ひを鴈山の夕の雲に馳す」と、たからかに口ずさみ給へば、
俊成卿いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。

其後世静まって、『千載集』を撰ぜられけるに、忠度のありし有様、言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でて哀れなりければ、彼巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて、よまれたりける歌一首ぞ、「読人知らず」と入れられける。

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、うらめしかりしことどもなり。


訳は、上手にしてくださっているサイトがたくさんありますので、そちらに譲り、ここでは大意だけ書いておきます。

忠度とは、平清盛の弟で、平家が都落ちをし、西へ向かう途中に京都にまた戻ってきた場面です。なぜ戻ってきたのかというと、和歌の師匠である藤原俊成に会うためにということなのですが、この藤原俊成は、藤原定家の父親でもあり、当時非常に活躍した歌人です。つまり、忠度は平家の武士でもあり、優れた歌人でもあったということです。俊成に師事していたので、最期に頼み事(自分の和歌を勅撰和歌集に入れて欲しいということ)をしに軍勢から引き戻って京都の俊成の家を訪れたわけです。

当然、京都の街も平家の落人が彷徨っていたり、戦乱の真っただ中ですから、俊成も驚いて門を閉めたまま用心していました。もちろん、今のようにインターフォンやセコムがあれば別ですが、そのようなものもなくまた外を覗くこともできないので、俊成初め家族も非常に驚いて困惑したことでしょう。

忠度が馬から降りて、
「門を開かなくてもいいので、門の近くまで寄ってきて話を聴いて欲しい」と俊成にお願いします。俊成は忠度だと分かったため、「忠度なら問題ない」と言って門を開けます。和歌の師匠と弟子の最期の別れの場面です。

「先生から和歌の指導を受けた後、先生のことを疎かに思ったことはありません。しかし、この数年は、京も国々も乱れ、自分は平家の身ですから、参り寄ることもできませんでした。天皇(安徳天皇)はすでに都を出られました。一門の運命はもう、尽きますでしょう。撰集(『千載和歌集』)が作られるということを聞き、生涯の面目に一首でも選んで頂きたく思いましたが、世の中が乱れて、撰選の知らせもなくただただ嘆いております。世が落ち着きましたら、勅撰のお知らせがあることでしょう。ここにあります巻物の中に、ふさわしい和歌があれば、一首でもかまいませんので選んで頂きましたら、自分は死んだ後も、あなた様を遠い草葉の陰からお守りしましょう」と言って、日々詠んでいる歌のなかで、秀歌と思われるものを百首あまり書きあつめられた巻き物を、もう去らないといけない時に、鎧の胴の合わせ目より取り出して俊成に差し上げる。

俊成はこれを開けて見て、

「このような忘れ形見を下さったことは、必ず粗末にすることはございません。御疑い
なさるな。このような状況になってでも、うちまで来られたことは、情けも非常に深う、哀れも特に思ひ知らされて、涙を抑えることができません。」

それを聞いた忠度は非常に喜び、この世に思い残すことはもうないと、馬に乗って俊成に別れを告げて去っていった。


しばらくして忠度が唱えた一節「前途程遠し、思ひを鴈山の夕の雲に馳す」(私がこれから進む道は程遠いだろう。もし会えるとしたら先の遠い未来でしょう。つまり、今生では二度と会えないだろうという意味)を聞いた俊成もたいそう名残惜しく思えて涙をおさえながら家に入っていった。

「前途程遠し、思ひを鴈山の夕の雲に馳す」に関しても書くとかなり多くの量になるため、今回は全て省略しました。和漢朗詠集で読まれた一節を大声で叫びながら忠度は西へ向かったということです。

ここでとりあえず、一度切ります。