授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

和歌の話⑦ ~平家物語 6~

 

和歌の師匠である藤原俊成と、弟子の平忠度の別れの場面の次を再掲します。

其後世静まって、『千載集』を撰ぜられけるに、忠度のありし有様、言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でて哀れなりければ、彼巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて、よまれたりける歌一首ぞ、「読人知らず」と入れられける。

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、うらめしかりしことどもなり。

その後、世の中が静まった時に藤原俊成が『千載和歌集』に入れる和歌を選んでいた時に、あの時の忠度の様子、また言い残した言葉など、今さらながら思い出してみると何とも哀れだった。例の巻物の中には、勅撰和歌集に入れるべきふさわしい和歌はたくさんあったが、勅勘(天皇から咎めを受けること)の人であったので苗字を記すわけにはいかない。「故郷の花」という題で読まれた和歌を一首、「詠み人知らず」として入れられた。

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

和歌の解釈についても、詳細はまたの機会に譲りますが、簡単にここでは書いておきます。

「さざなみ」は琵琶湖西南の沿岸一帯の地名のことを言いましたが、後世、「志賀・滋賀」を導く枕詞として使われるようになりました。枕詞の本当の意味もまた今後、書籍にて詳細を触れたいと思いますが、単なる「滋賀」という言葉を導くものだけではありません。今後の明るい展望や希望がそこには含まれているということだけ、ここでは記しておきます。

(大意)
都があった滋賀の地は、今となっては荒れてしまったが、長等山に咲く山桜だけは昔と変わらないことよ

その身は朝敵となってしまった上は、細かいことを色々言っても仕方がないこととはいえ、(詠み人知らずとして、しかも一首だけ)残念なことであった。


忠度はこの和歌にどのような想いをこめたのかをここでは少し書いてみたいと思います。

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
ポイントは2点。枕詞と対比です。
まず対比に関して書くと、人間の作ったもの(都)と、自然(花)とを挙げて、変わるものと変わらないものとを対比させていることが分かります。
そして、先ほども少し触れましたが、枕詞が出てきたときには筆者の今後の明るい展望や希望が含まれているということです。
これに関しては膨大な量となりますので、割愛させて頂きますが、枕詞は訳は不要で、飾り物のように習われてきた方が多いと思います。和歌は三十一文字しかないのに、本当に飾りのために五文字も使うと思いますでしょうか?とんでもなく、深い意味がここには込められています。

つまりは忠度は自身の肉体は亡くなるが、自身の思いや御霊(つまりは和歌)を俊成に託したことで永遠の命を得たということなのです。ですから忠度は、「もし勅撰和歌集に自分の歌を一首でも入れてもらえるなら、草葉の陰から見守ります」と一言俊成に伝えたのだと、私は解釈しています。現に忠度のことは高校の教科書で触れられるほど、有名な話ですし、『千載和歌集』にも選ばれましたから全くその通り(永遠の命を得た)になったということです。和歌を選んでくれなければ、あなたを見守りませんよなどというせこいことが言いたいわけでは決してなくて、それだけ昔の人にとって和歌は命と引き換えになるほどの大切なものだったということなのです。

本来古文を読むというのは、ここまでの深い理解があってこそ価値があると私は考えています。せっかく高校生という瑞々しい感性を持った時代に、文法の暗記やどれだけ早く古文を読めるかというところに特化して授業が進められるのは、非常に勿体ない。ずっとそのようなジレンマを持って教壇に立っていましたので、また機会がありましたら本ブログで古文の読み方も取り上げていきたいと思います。

『平家物語』に関しての記事は以上です。ありがとうございました。