授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

先祖のこと⑤


前回の先祖のこと④の続きです。

以下は『山水随縁記』の一節です。江戸時代末期(1863年)に生を受けた蘇峰の書く文章は、もちろんどれも漢文調で、現代人からすると非常に硬い印象を受けるのですが、その中でも以下の文章は、佳澄との師弟関係を描いた優しく穏やかに編まれた文章だと感じます。馴染みのある旧字体はそのままに、そうでないものは新字体に直しました。濁点に関しては原文に従って付けておりません。

~ 船は塩飽群島の間を過きて、午前十時過きに多度津埠頭に著し、何よりも先つ出向
 ひたる濱田佳澄君と相見て一笑し。直ちに相携へて、其宅に赴けり。

 濱田佳澄君に逢ふ

 予か此地に來る楽の主なる一は、實に君と相見るにありき。今や君の家に至り、其の    夫人、其の子女、其の双親に面し、和気雍々の裡、往を説き來を語る。人生の福祉、豈に此に過きるものあらん哉。予君と相識る二十餘年、その志偕に天下に在り。不幸君は痾(病)を抱いて、故園に起臥したるも、君の心、未た曾て予に存せさるなく、予の心、未た曾て君に在らさるなし。斯心や必すしも天地神明に質す迄もなく、雙心之を知るのみ。今や君と此地に相見る、予か愉快は、君か愉快也、君か愉快は、予か愉快也。予は久し振りに此の如き愉快に接し、殆ど双脚か曇の上に根を下ろしたるか如く、自ら前程の期あるを忘れんとしたりき。君の一家の饗應に対し、何ら報ゆる所以を知らす、漫に(そぞろに)途中所作の拙詩数首を録して、君が清娯の資に供し置きぬ。  ~


病を患い帰郷している弟子に、遠路はるばる会いに来た一場面です。
蘇峰と佳澄は約10歳年が離れた師弟関係ですから、友人というわけではありませんが、かの孔子が遺した「朋在り遠方より来る、また楽しからずや」を想起する一場面だと感じました。

現代人にとって「旅」とは、命がけですることでもなく、日常生活の一コマとして存在するものです。ちなみに紫微斗数では、移動を見る宮がたくさんあります。遷移宮を始め、兄弟宮、子女宮、父母宮などでも移動を見てもよいのですが、ここの状態が悪いと「意外」に遭いやすい、つまりは前生において「意外」に遭った可能性、もしくは人を「意外」に遭わせたがあるということです。自化Dや自化Bなども同じ意味です。

それだけ昔の人にとって「旅」というのは命がけでするものだったのでしょう。だから旅先で味わう感動や、また離れて暮らす友人や家族と会う喜びも、現代のそれらとは比べものにならないくらい大きかったのだと思います。二度と遭えないかもしれないからこそ、その時間を大切に過ごそうとする想いにこそ美しさを感じます。

蘇峰は文中で以下(太字部分の訳)のように述べています。

「不幸なことに、君は病を得て、故郷で療養しているが、君を想う心は未だかつて自分の中で消えたことはなく、自分を想う心も未だかつて君の中で消えたことはないだろう。お互いのこの気持ちは天地神明に問いただすまでもなく(明らかにするまでもなく)、ただお互いの心が良く知っているのみで充分だ。」

晩年佳澄が蘇峰に向けて書いた書簡には

略~初めて先生の御書簡(端書)を頂戴致せしは忘れもせぬ明治二十六年五月中旬に有之、爾来今日に至る迄御端書等を合すれば無慮百余通に上り申候。其中には専門学校在学中頂きしものあり、北清滞在中賜りしものあり、病気帰郷中拝受せしものあり、退社後頂戴せしものあり、一通一通迂生に取りては思出の深くものに非ざるなく、一通毎に拝見謹誦して万感交生じ寔に感慨無量に不堪、四旬年の長きに亘りて垂れ給ひし御懇情と山海不啻御恩誼とに対しては衷心感激の念湧出し来ること禁じ得ず、只感泣あるのみに御坐候~略」(昭和6年2月7日書簡より引用)

と記されています。両者の思いが時代を経て再び蘇った、そんな思いが致しました。