授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

先祖のこと⑥

2020年の年明け、私は神戸市文書館に足を運びました。佳澄の書いた大正7年1月20日付け神戸新聞の一面記事をコピーするためです。
佳澄は国民新聞記者時代に、日露講和談判に際しポーツマスに特派されます。条約調印のその日、日本では条約反対を叫ぶ群衆が暴動を起こし、国民新聞社も焼き討ちにあいます。
帰朝後、国内の混乱状態を目の当たりにした佳澄は、神経衰弱に陥り、記事を書くことができなくなりました。病を得て、国民新聞社を退社し帰郷していた理由とは以上のことでした。何とか記者生活を続けようと試みましたが、復帰は叶わず明治43年に療養のため帰郷します。そして約7年間の療養生活を経て大正7年に神戸新聞の主筆として復帰する際に、自身の紹介文とこれまでの道すがら(=通ってきた道)を一面記事全てを使って書きました。私はその記事をどうしても読みたいと願い、現存する場所を探し当て、神戸まで足を運んだのです。

神戸市中央区にある文書館に到着したらすぐに、検索・複写することができました。一面記事一杯に書かれてあるその記事の文字数は、ざっと数えて1万字ですから、全てここに書くことはできませんが青年期からの出来事や蘇峰との出会い、国民新聞社入社後の生活、また病を得た後の自身の生活など、赤裸々に書かれた文章が私の胸を打ったのは言うまでもありません。

私は、本ブログにおいてもまた、紫微斗数講座の中でも、

「人生において、どのような功績や仕事を残したかが大切なのではなく、自分に起こってきた出来事をどのように果たしてきたかが問われているのだ」という話を常々しております。著書「授かりし命をつなぐ道」の中で、人生の仕組みについては書いてありますので詳細はそちらに譲りますが、佳澄が苦境に立たされた時の想いを読み、私はあることを悟ります。

~(略)

或人は予が変化少くして単調なる生活を繰り返して倦怠の色なきをを怪しめり。或人は予に忠告するに、詩を作るよりは田を作れといふこともあれば、一層新聞屋を断念して商売換えをなすことが健康回復の良法なるべしとの意を示したるものありき。予は聊か信ずる所ありて、何等辯解する所なく、唯吾が好む所に従ふて、書籍と新聞とを友とし、他の眼には無意義に映じたる生活を続けて曾て静かに病気と根競べをなしたりき。事実に於て予が帰郷の当初周囲より呑気に養生せよといはれたるときは、予我知らず健康の回復に焦心りたるも、焦心ることが健康回復の途に非ざることを自覚してよりは、窮めて暢気なるべく工夫して、遂には殆ど其三昧に至り、知友等が予の健康回復の遅々たるに心配して、頻りに予の出盧を促すに際しては予は餘りに暢気過ぐるものと見做されたる程なりき。予は唯一の健康回復を望みて、静かに待ち悠々として待ち執拗に待ち、根気善く待ちて、曾て失望せざりき。偶々郷党より何等成すなくして滞郷しつつあるかを質問せらるるや、予は笑ふて答へず、心の中にて李太伯の詩を誦するを常としたりき。問余何意棲碧山、笑而不答心自閑桃花流水杳然去別有天地非人間。(略)~


最後の漢詩は李白の「山中問答」という漢詩ですが、簡単な訳を記します。

ある人が、私に「なぜこのような山深いところに住んでいるのか」と問う。私は笑って答えなかったが、心の中は穏やかだった。桃の花が川に流れに乗せられていく。ここは、俗世間とは全く違う、自分にとっては至福の場所なのだ。

本人の気持ちや深い事情を知らずに通りすがった人が、世話を焼いてあれやこれやと声をかけてくるのは、いつの世も同じです。このようなときは、自らを信じ多くを語らず静かに笑っているのが一番良い通り方だということ。そして、もし逆の立場になった場合には、人には人の事情があるのだから、余計なことは言わないこと。これが人の道だだということを、佳澄から教えてもらったような気がします。
そして、先祖が子孫に残せるものというのは、目に見えるもの(財産や物、業績)ではなく、自身の生き方であり、これが本当の陰徳だということも教えてくれました。



~大正7年1月21日 神戸新聞コピー ~