授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

仕切り直し


前回のブログからあっという間に2週間経過し、気づいたら1月ももう終わりということに驚いています。

1月の中旬にコロナ陽性になり、結構症状が重たかったので1週間はほとんど自宅で静養し、そこから数日も極力外に出ないようにしていました。10日間で色々気づいたことがあったので備忘録のために書いておこうと思います。

(経過)

・ウイルスが身体に入って動き出した瞬間がはっきりと分かった。喉に何か虫が止まった感覚があり、異物が入ったのがおそらくその時なのだと思う。

・ウイルスが入った2日後、熱が上がってくるときに、臍下丹田がものすごく熱くなり、スーパーサイヤ人にでもなってしまうんじゃないかというエネルギーを身体の中に感じる。

・その後繰り返す嘔吐、発熱、関節痛、頭痛。特に関節痛は痛みの場所が時間とともに移動するのが分かり、最初は下半身、そして上半身と約2日かけて痛みが身体を移動する。

・愛読書である野口晴哉の『風邪の効用』『整体入門』を改めて思い出す。人間にとって風邪を引くことは大いなる恩恵なのだということを自分の中に叩き込み、本に書いてある通りに施術を施すと熱がサッと引いていった。

・ウイルスが出て行った瞬間がはっきりと分かった。入ってきたときは喉からだったが、出ていくときは背中のあたりが突然ふっと軽くなり(ツボで言うと、おそらくチリケの灸点=身柱かと思います)、体内を掃除して用事がなくなったので出て行ったのだと悟る。

(困ったこと)

・スマホの画面を見るのがとにかくしんどい。電磁波のせいか分からないが、スマホの画面を見ると、目が耐えられなかった。

・頭が回らない。普段ならさっさとインプット、アウトプットできるぐらいのことでもすぐに抜けてしまう。

・何か仕事のことや、講義の内容を考えていても、思考が持続せず構築することができない。(自分の場合、これができないと仕事にならないので、もしこんな状態が続くのであれば致命傷だなと感じた。)

・嗅覚がない。発症後数日経過してから嗅覚と味覚が無くなり、生きている実感がいつもと少し違う。食べたり飲んだりする以外にも香りを感じることで、確認していることがたくさんあるんだなと思い、地に足がついていない感じがする。


(良かったこと)

・強制的に休養できたこと。社会人になってここまで寝たのはおそらくこれが初めてではないかというぐらいとにかく寝た。寝ようと思ってなくても、気づいたら寝ているので、きっと身体が望んでいたことなんだろうと思うようにし、一度全て諦めようと思えた。もし中途半端に身体が動いたら、きっと抗って何かしていただろうから、ここまで寝る時間をくれたコロナには感謝の気持ちです。

「ある」のに「ない」という感覚を知ったこと。風邪で鼻が詰まり、嗅覚がなくなった経験はこれまでにもあったが、しかし今回の嗅覚のなさは特別で、本当に全く「ない」という状態だった。例えば、珈琲を飲んでも、緑茶を飲んでも、味噌汁を飲んでも熱いお湯を飲んでいるということが認識できるだけで差や個性が全く分からない
数日経過して味覚だけ先に戻ってきた後も、苦み、塩味、甘味などは分かるが、それから先が分からない。例えばメロンパンを食べてもロールケーキを食べてもチョコレートを食べても甘い食べ物を食べているという認識があるだけで、それぞれの味の個性が分からない。特にコーヒーを飲んだときに、苦いお湯を飲んでいる感覚しかせず、非常にまずく感じた。

これらの経験から分かったのは、そこには確かに存在しているのに(自分が感知できないだけで部屋の中はコーヒーの香りやメロンパンの香りがしているはず)、自分が感知する力や感性がなければ、それは「ない」に等しいということ。そしてこれは、味覚だけの話ではないんだろうなと。
例えば、自分に与えられている環境や能力であったり、友人・パートナー・家族の存在。または目には見えないもの、例えば昔の思い出や自分で得てきた知識や経験、自信など(紫微斗数の講座でも話していますが、要は「溜め」の部分)。そしてどんどんこれが高度になってくると、人智を超えた大いなる力、理、道、信仰、亡くなった人からの想いなどに次元が上昇していくのだと思いますが、ここまで来るともっと気づくことは難しい。ですからこの辺りは、学んで知る必要があるのだと思います。

これら全て「ある」のに「ない」と感じてしまったり、もしくはそれに気づく感性が自分に備わってなければ、目の前に、また自分の中に確かに存在していても「ない」のと同じなのだと改めて思いました。

「できない」「しない」「やりたくない」「わからない」と「ない」をつける人生をこれから自分は歩いていくのか。それとも「できる」「する」「やりたい」「わかる」と「ある」をつける人生をこれから自分は歩いていくのか。
人間として生まれてきたからには、当然後者であるのだろうし、それに気づき続けることが人間として生きる意味でもあり、人間として生きる尊厳ではないかと思います
なるほど改めてそのことに気づくために嗅覚がなくなったのだと考えたら、これも大きな一つの良かったことになると感じました。これが一番の収穫だったかもしれません。

大きな気づきを得たので、また今日から仕切り直して人生を歩いていこうと思います。(了)