授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

蘇ってくる人たち


桜が咲く少し前に、滋賀県長浜市西浅井町菅浦にある「菅浦湖岸集落」を訪れました。備忘録のつもりで書きます。
菅浦湖岸集落は琵琶湖の最北端にある集落で、平成26年重要文化的景観にも選定されており、眼前には竹生島があります。『平家物語』にも平経正(清盛の甥っ子)が木曾義仲追討の際に、この辺りから竹生島に渡る様子が描かれていますが、水の音だけが延々と聞こえる、まるで時が止まったような本当に静かな場所でした。

 


何よりもここは『ホツマツタヱ』伝来に関わる重要な地域でもあり、今回私は景色を見るというよりも(景色も当然素晴らしかったのですが)、その歴史の一端に触れたくて訪れました。

景行天皇の御代に『ホツマツタヱ』をまとめたオオタタネコの末裔に、和仁估容聡という人物がいます。この和仁估容聡も江戸時代中期に、ヲシテ文献の研究に一生を投じた人でしたが、『生洲問答』(中江藤樹記念館所蔵)という書物を残しています。その中に、この菅浦という地名が出てくるのです。

ちなみにこの『生洲問答』(くにうみもんどう・せいしゅうもんどう)は、和仁估容聡がある人からの質問に答えるという形式でまとめられた、ヲシテ文献の入門書のようなものです。下図を見ると「一人問言」(➡ある人問いて、言うことには)から始まります。

 


これを読み進めていくと、大加茂臣赤坂彦とその息子の和仁估世々彦が登場します。『生洲問答』から読みとれる親子についての事柄が以下になります。

父の赤坂彦は、孝謙天皇・淳仁天皇・称徳天皇に仕えた忠臣であった。道鏡が、我が国固有の古書等(ホツマツタヱやミカサフミもあったはず)を焼失したことに憤慨し、時の女帝、称徳天皇にしばしば諫言申し上げたが、女帝聴き入れ給わず、これ(道鏡)を用ひ給ふ。故に和仁邑(むら)に於いて、自害し亡せぬ。

要は、道鏡が古書を焼いたことに憤慨した赤坂彦は、称徳天皇に諫言したが、天皇はそれを聴き入れずにそのまま道鏡を役職に付けたため、自害したということです。
称徳天皇と弓削道鏡の関係は非常に有名ですね。ここには書きませんが、赤坂彦の言い分など聞き入れるはずもないのは現代に生きる私でも何となく分かります。
しかし命を捨ててまで、古書を守ろうとした赤坂彦に対して、道鏡は脅威を感じ、息子の世々彦を父赤坂彦の生前の官職に任じました。しかし息子の世々彦は、父親の遺志を守り、その官職には就かずに琵琶湖の北端、葛籠尾崎の突端にある菅浦に蟄居隠棲し、姓を和仁估と改めるのです。

以上が父子に関する概略です。

息子の世々彦は、手元に残っている古書を携え菅浦に渡ってきたはずなので、『ホツマツタヱ』が途切れず今の世まで伝わってきているのは、この親子の陰徳のおかげと言ってよいでしょう。

ちなみにこの菅浦は、鎌倉時代から室町時代の古門書『菅浦文書』が大量に発見された場所でもありました。集落内には菅浦郷土資料館(残念ながら冬季12月~3月は休館で中に入れなかった)もあります。

『ホツマツタヱ』を発見された松本善之助先生も、これは絶対に見逃さなかっただろうなとふと思い、松本善之助先生の文書を探してみたところ、やはり目をつけて滋賀県に来県した旨がが書かれてありました。
『菅浦古門書』の多くは現在、滋賀大学附属図書館に所蔵されており、その中にヲシテ文献がまぎれこんでないかを確かめに来たが、何一つ見つからなかったという内容の文章が見つかりました。

「あめなるみち」は天地が貫く限り消えることはありません。人が勝手に作った「みち」(そんなものは「みち」とは言えないのですが)で以て、いくら巧妙に消せたとしても、必ずいつかは表に出て蘇ってくる。つまり、良しも悪しきも露見するということです。
赤坂彦、世々彦の誠がひしひしと伝わってきた菅浦訪問でした。(了)