授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

先祖のこと①

古代日本には「カミの道」という言葉がありました。カミを漢字で「神」と当ててしまうと、神社に行けばそのカミに会えると思い、神社参拝を思い浮かべますが、ここで言うカミは敢えて漢字にあてると「カミ=上」、がふさわしいかと思います。

著書「授かりし命をつなぐ道」でも書きましたが、私達生きている人間には必ず両親がいて、そして祖父母・曾祖父母がいます。そして、もっと遡ると万物を造られた存在に辿り着く。私たちの先祖、特に一番近い先祖は両親になりますが、先祖の生きてきた道があって私たちがいる、また今を生きる私達は先祖のことを頂き、先祖から学ぶことでしかるべき道を歩くことができる、これを「カミの道」と古来の日本人は言ったわけです。紫微斗数で考えても、命宮、父母宮、福徳宮(祖父母)、田宅宮(曾祖父母)・・・と辿っていくことができますから、紫微斗数を学ばれている方はなおさら納得して頂けることだと思います。

以上のことを、あらゆる教えの「うい=(初)」とした私たち日本人の先祖は、どこまで高度な文明と哲学を持っていたのかと、常々感心します。

この教えを知ると、いつも自身の先祖と繋がることができます。もし、あなたが子どもや孫を友人、恋人を残して先に死んだとします。残してきた人たちが無事にこの世で生きて行ってくれているか必ず、気になると思うのです。いくら、生前喧嘩ばかりしていても、亡くなった者の気持ちというのは残した者を想うものだと私は確信しています。

生きているうちは、うわっかわの感情がお互いに強いため、関係性が拗れてしまうものですが、もう肉体が果てて、「みたま」になり大自然の元に還ることができれば、徳しかありません。徳とは一体何かを、簡単に説明すると「自分=我がないこと、人のことを想うこと、利他」だと私は考えています。特に肉親であれば地上で生きている子や孫が無事に安全に生きてもらえますようにと願っているはずなのです。

しかし、その思いとは反対に、地上にいる者が神社や全く違うものを祀っていたらどうでしょうか。先祖のことなど知らない、そんなことよりも開運のために神社に行く方が大切だとなると、いくら先祖が思いを向けていても、それを受け取ることができません。

「カミの道」とは、私の個人的な想いや考えではなく、大自然の法則の一つです。そこに逆らってしまうと、また調整作用が働くことになり果たして行かなければなりません。痛い想いをして気付くことが悪いわけではありませんが、せっかく私たちの先祖が残してくれた素晴らしい教えがあるのだから、真摯にそれらを学ぶことは、「カミの道」に沿うことだと私は思います。