授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

書籍のご案内


書籍のご案内です。

ブログに書いてきたこととは少し趣が違う内容になるのですが、今回『あめなるみち~誉れ高き我が国日本を愛でて集う』という本を書きました。限定版をご希望された方は既にお手元に届いてみえるかと思います。今回は一般の方に向けてということで、ご用意いたしました。

前著『授かりし命を繋ぐ道』では、宇宙自然の法則とは一体何なのかという内容を、紫微斗数のことを中心として書きました。どちらかというと、個人がどのように生きていけばよいかという視点が強いです。

今回は、宇宙開闢以前まで遡るというダイナミックな視点を持ちながら、言葉の仕組み、文化、和歌、人としての生き方、日本人の役割・使命、教え、歴史など多岐に渡る内容を織り込んでまとめた教育書です。歴史に関しては『ホツマツタヱ』を基軸として解読しています。一見『ホツマツタヱ』の解説本のような内容に見えるのですが、決してそれだけではありません。万物をつくられた「カミ」が私たち人類に一体何を願っているのか。その想い、つまり「祈り」をただひたすら受け取らせて頂きたい、その一念のみで書き上げたものです。どうぞ、縁のある方は是非、手に取って頂ければ幸いです。

さて、本日は先ほども書いた「祈り・祈る」について書きたいと思います。もし、子どもさんに「祈り(る)」ってどういうこと?と聞かれたらみなさまはどうお答えになりますでしょうか。ご興味ある方は辞書で「祈り(る)」と引いてみてください。

私の手元にある辞書には
【語源】動詞「の(宣)る」に接頭語「い(斎)」が付いてできた語
【意味】神や仏に請い願う。神仏に祈願する。心から望む。願う。

と書いています。意味は何となく分かりますが、【語源】に関してはいかがでしょうか?何となくそうかなというぐらいであれば違和感ありませんが、人に伝えるとなるとこれでは相手を混乱させてしまいます。

ちなみに私は原始日本人の考える「いのり」というのは、一方方向のものではなかったと想像しています。なぜ、それが分かるのかというと、ヲシテ文字を解読すれば一目瞭然ですので、私なりに解釈してみます。まず、いのりとは、下図↓↓のように書きます。ちなみに「いのり」は名詞。動詞にすると「いのる」となります。    

まずヲシテ文字の「い」は簡単に説明すると「想い、意志」という意味を持ちます。『あめなるみち』の本にも書きましたが、「物事がまだ始まったばかりの時や、想いの段階」です。例えば「お腹がすいたなぁ」「旅に出たいなぁ」とまだ行動にはなってないけれど、気持ちがそちらの方に向いている状況を思い浮かべて下さればそれが「い」の状態です。

そして、ヲシテ文字の「の」ですが、田んぼの「田」と同じ形ですね。これは、「+」上下の縦線と左右の横線が交差して、そして「口」というのは「固める」という意味をもちますから、私は「お互いの思いや願いが交差し、形になる」という意味があるのではないかと考えています。あとは動詞の活用語尾(ら・り・る・る・れ・れ)が引っ付いていると考えればよいです。つまり「いのり(る)」というのは「い(想い)」が「のる(固める)」状態、であったり「い(想い)」を「のせる(固める)」行為を指したのではないかと私は考えるのです。

お互いの思いや願い、つまり双方向という意味合いが大切です。例えば亡くなった先祖の思いと自分の思いが交差する、万物をつくられた「かみ」の思いと、自身の思いが交差する。もし、私の解釈が正しいものであるとしたら、人間に与えられた「いのり」という行為はなんと神聖で、純真無垢な行為ではないでしょうか。

現代ではこの部分の解釈がきちんとなされていないため、一方通行のもの、例えば「神社に行ってお願いする」「祈祷する」という意味が強くなってきたのだと私は推察しています。このように言葉の変遷を見てみると、私利私欲を叶えて欲しいという人間の自分勝手さが出てきてしまった経緯も良く分かります。


以上のことに関しては『あめなるみち』の本が完成したときに、辿りついた考察です。私の想いと、今となってはこの世に存在しない先祖や、目に見えない「かみ」との間で生ずる思いが交差して書き上げたものであるとしたら、それは必ず誰かのため、世のためになると確信しております。

人として生まれてきた私たちは、物質的な囚われがどうしても大きくなりますが、最終的に自身を支えるものは「いのり」という行為であると思います。特に、日本人はそれを実践してきた民族でした。人間にとって都合が良いことも、そうでないことも、全ては天の采配によって起こってきたことであると受け止めながら生きてきたということです。詳細はまた本書をお読みくだされば幸いです。