授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

お子様の進路選択② ~そもそも大人は大丈夫なのか?~


前回のブログ「お子様の進路選択①」の続きです。

前回の記事では、人間の脳は、文系や理系などどいう科目による単純な区分けができないと書きました。何故なら、人間の生活は全てのバランスの調和によって成立するものだからです。学問がここまで細分化されている時代は、ここ数十年のことであり、それに警鐘を鳴らす人はたくさんいます。かく述べる私もその一人です。

少し、現代の生活を振り返ってみましょう。スマホ一つで何でもできるようになりましたが、その中でも例えば、本を読むこともあれば、買い物へ行ってお金の計算をすることもあるでしょう。また、どこかへ旅をしようと思うと地図も見ますし、時間の計算もしますし、初めて会う人と話すためのコミュニケーション能力も必要です。
また料理をしようと思うと、レシピを読み、調味料の計算をし、最後の仕上げは自身の味覚や視覚、つまりは五感を使って調整することになります。

学校の科目や大学の学部はブツブツ切られていますが、実際の生活は文系・理系双方の知識を使っていかないと成立しません
ちなみに、紫微斗数を体得しようと思うと、文系・理系双方のバランスが極めて必要です。人の心や魂を扱う分野はいわゆる文系。ロジックや様々な法則は理系です。学んでみえる皆様は、知らず知らずのうちに文理両方を体得して頂いていることになります。

少し時代を遡りますと、武士は文武両道でした。
学問と言えば読み書きから始まり、『四書・五経』の素読、儒学の体得。またその傍ら剣術・柔術・砲術・馬術などを身に着け、趣味として華道・茶道・絵画・作詩(漢詩・和歌)も嗜む。
また家業が医者の人は加えて、医術・灸術・占術。勘定方の武士は加えて算術、、、と今よりも圧倒的に寿命が短い人生で、文系・理系・学部など全く関係なく、術を身に着けていきました。

もちろん人によって得手不得手、出来不出来はありますが、しかし満遍なく、バランスよく、その時々で必要なことを身に着けていく。
まさに「中庸」を取りながらというのが、自然の理に適っており、人間の脳も身体も本来はそのようにできているのです。

以上のように整理すると、現代の教育はかなり人間の心身には無理を強いられていることが分かります。学校へ通うようになってから、心身症(鬱や適応障害)を患い、不登校になってしまったというお子様がたくさんいます。学校が合わないのか、人混みが嫌いなのか、人間関係で不具合が生じているのか様々な原因があるのだとは思いますが、そもそも、現代の教育のシステムに限界が来ている。

つまり、人間が不自然を強いられている極みにきており、それが不登校という形で出ているのではないかと私はそう考えております。(この辺りの詳細はケースバイケースのこともありますので、鑑定もしくはまたの機会にお話したいと思います)

このような不自然な状況の中、「頑張れ・頑張れ」と一遍通りの励まし方では子どもの心身が潰れてしまいます。先天的に強いお子様であれば通用するかもしれませんが、そんな子どもばかりではありません。

よく親御さんや先生が、自身の経験を通して「頑張れば報われる」と子どもに熱血対応するケースが見受けられます。一見良いことのように思えますが、それは非常に無責任な行為であると私は感じてきました。

報われるか報われないの定義も人それぞれですし、それぞれ定めを持って生まれてきた人間がどうなるかなど、死ぬまで本人も分からないからです。ある程度の学歴やステータスを得られている人でも、家族関係において問題が多々あるというケースも多くあります。また良い企業に入っても、心身の不調で働けなくなることは誰にだってあります。

人間が生まれてきた目的や、生まれてきた甲斐とは一体何なのかということを学ばず、自身のこだわりを変えずに誰かをコントロールしていたら、必ず因果の法則に基づいて果たさないといけないことが起こってきます。

だから事が起こってきたときが自身の人生を切り替えるチャンスであるともいえるのです。紫微斗数に出てくるB(化権)には「縁変」という意味がありますが、何か切り替えるときは必ずトラブルや困難と共にやってくる。これが理だということです。

では実際に進路選択はどのようにしていけばよいのか。もう少し次回に続きます。