授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

天職をどう考えるか①

一度きりの人生、「天職」に辿り着きたいと考える人は多いと思います。近年の教育では中学校や高校から既にキャリア教育の一環として、職業調べやインターンシップ、適性検査など、自身の適職が一体何なのかを知るために時間をかけ、そして希望(「とりあえずの」と付け加えた方が良いかもしれません)の専門学校や大学に入学をし、就職するというルートを一般的には辿ります。

終身雇用が当たり前だった時代は、そのまま定年まで同じ会社で働く場合が大多数だったと思いますが、現在はその制度も崩壊しておりますから(もちろん公務員や一部の企業では適用されていますが)、早い人であれば数年のうちに転職することは全く珍しくありません。

世間では「自分らしい生き方を」と謳う一方、若者が定職につかなかったり、転職を繰り返す様子を見て、根性がないからだと嘆いたり、叩いたりする風潮があるのが実情ではないでしょうか。二つの相反する価値観の間で板挟みになることをダブルバインド(二重拘束)と言いますがまさに今の人たちは、このダブルバインドの中を生きていると私は感じています。

しかし、上のようなことは人類史上初めて直面したわけではありません。
例えば近い時代ですと、江戸時代から明治時代にかけて生きた多くの人々も、従来の身分制度が崩れる中で(もちろん表面的には崩れてはいても、すぐに切り替わるわけではないため、実際は身分制度を引きずりながら明治時代が始まります)どのように自分の人生を生きていけば良いかということについて非常に悩みました。武士として生まれたら武士として死ぬのが当然の価値観であったのが、急遽、自由や個人の幸福を謳う世の中になり、また自我の確立を迫られるという状況を少し想像して頂くと歴史は繰り返されていることがよく分かると思います。

高校の教科書に必ずと言っていいほど出てくる夏目漱石の『こころ』という作品は、高等遊民(明治時代の知識人)の苦悩が、詳細に書かれていますが、時代は変われど、人間の悩みは変わらないということが非常に理解できる作品だと感じます。

さて私自身は鑑定する際に「天職」についてどう考えいるかについて述べたいと思います。

まずその前に「天職」という言葉の意義について考えます。言葉通りに解釈すると、天から与えられた仕事=天職ですから、「天職」と聞くと何か特別な仕事や役割のように解釈されることが多いですね。また、「天職」は楽しくないといけない、ワクワクしないといけないなど、様々な解釈をされますが私はそんなこともないと考えています。ある人にとってはそうかもしれませんが、ある人にとってはそうではないということです。

紫微斗数でいうと例えば官禄宮に生年Aを持っている人は、基本的に仕事に楽しみを見出す人が多いです。あまり苦に感じないともいえます。そして、まぁまぁのところまでいくと気分転換に違うことを始めたり、またそれも飽きたら戻ってきたりと仕事に関して気まぐれなところ持っていますから周りから見れば自由に見えるでしょう。そして命宮や福徳宮に生年Aを持っている人も、起こってきたことに対してポジティブに考えようとするために、楽しんで仕事に取り組む傾向があるように思います。


逆に官禄宮に生年Dを持っている人は、楽しんでというよりかは仕事に囚われて、苦しくてもずっと仕事をしている人が多いです。またローラー作戦と言って、一つ一つ順を踏んで取り組む傾向を持っていますから、官禄宮に生年Aを持っている人よりはスピードも遅いです。
また命宮や福徳宮に生年Dがある人も、物事に拘ったり、囚われやすい人が多いため、仕事に関してストレスを抱えやすい人が多いように思います。しかし非常に繊細な感覚を持っているため細かい作業が得意であったり、やり始めたことは最後まで丁寧に仕上げる方が多いです。

上の特徴を持っている2人が、仕事観について話しても真に共感できる部分は少なく、おそらく、平行線を辿ると思います。それは決して悪いことではなく、当然のことです。またそのお互いの部分を尊重し、協力できると良いのですが最悪なのは、どちらが良くてどちらが悪いの議論になってしまうことです。どちらにも良し悪しが必ずあります。


例えば生年Aの特徴も昂じると適当になったり、調子に乗ったりしますから、そういう時には慎重に物事を考える人、つまり生年Dの人がいてちょうどのバランスを保ちます。逆も然りで、あまりにも物事をネガティブに捉える人だと前に進みませんから、そういう時には、多少楽観的な人が入ることで物事が前に進みます。

太陽の働きと月の働きがそれぞれあって、地球の環境が保たれている自然界と同じで
仕事に対する考え方や取り組み方も人によって違うということがお分かりいただけると思います。ワクワク仕事できる人もいれば、どんな仕事を選んでもしんどいと感じる人もいますし、逆に全く仕事に関しては拘ることなく食べていけたら何でもよいという人もいます。その人それぞれの果たし方がありますから、仕事に対して同じ価値観を求めることは無理だと考えるのが自然だと私は思います。もう少し続きます。