授かりし命をつなぐ道

紫微斗数鑑定をしながら、ヲシテ文献や大自然の法則について研究しています

生きるという決心


「一生懸命」「一所懸命」という言葉があります。子どもが字を覚えたり、新しい何かに挑戦するときのその姿勢を少し思い出してみてください。夢中で、周りのことや評価など気にしない。まさに「一生懸命」といういう言葉がピッタリだと感じます。

大人になると、つい忘れてしまいがちになるこの言葉。

面倒だ、恰好悪い、どうせ人に勝てないからやめておこう、
向き合いたくないから何か他の楽しいこと、楽な方法で気を紛らわそう、
あの人はどうのこうの、面白くないので人の足を引っ張ってみよう・・・ETC

「知恵」がつくとこうなってしまうのか、育ってきた環境や特性でそうなるのか、ケースバイケースでしょうけれども、つまりは「一生懸命」ではなくなるのだと思います。

また今のように便利な機械やスマホがなかった時代。

洗濯するのも料理をするのも、時間をかけて一生懸命取り組まないと先へ進めませんでした。また何か教えを乞うときにも、師匠を一から探すために旅をすることから始まります。また本もたくさんあるわけではないので、一冊の本を借りては書写をし、知識や技術を習得していきます。そのようにして得た知識や施術は身についているため、絶対に忘れることはないのです。

その時代から比べたら、家事にかかる時間も圧倒的に少なくなり、何かを学ぼうと思えば移動しなくても、大量の情報に触れることができるようになりました。ありがたい時代になる反面、頭も体も使わなくなり、どんどん「一生懸命」生きることから離れてしまう。

本来、命を生きるということは、非常に大きな任務を背負っていると私は考えています。
本ブログ「授かりし命を繋ぐ道」の名前の通り、

命というのは、自身だけのものではなく、連綿と続く中の一部分を担っているということですから、自分勝手なことをしたり、感情に振り回されてフラフラすると先に繋がりませんし、今迄繋がってきたものも台無しにしてしまいます。

また何事にも「旬」というものがあって、その「旬」が過ぎてしまうともう、二度とやり直しはできなくなる。例えば分かりやすいのが人間関係です。言ってもらっているうち、気にかけてもらっているうちが花=旬です。それに答えずにいたら、あっという間に旬が過ぎてしまい、二度と声をかけてこられることはないでしょう。

一生懸命、命を生きていないと、そういう繋がりや旬に気付かなくなります。
人のことや、自分のアチコチする感情(プライドや損得勘定などもこれに入るでしょう)は一端置いておいて、自身は今一体何をすべきなのか、それを常に自身に問いながら生きていきたいと思う今日この頃です。